久しぶりに、会った。いつものように、わたしに色々と質問する。 いつものように、壁に背中をもたれて、 手を後ろにまわして。 相変わらず忙しそうだった。 「じゃあ」と、今日はわたしから言った。 一度も言えなかった、「じゃあ」。 いつも彼が切り出す「じゃあ」に、ずたずたに切り裂かれるような気がしていた。 「A la prochaine fois,(またね)」 ふと、思いも寄らない言葉がするりと出た。 「...ou plus jamais(...それか、もうこれが最後かもね)」 彼は、ちょっと目を丸くして、それからにやりとすると、 「じゃ、Adieu(アデュウ)だね」 と、言った。 「うん、Adieu(アデュウ)。」 そうか、アデュウという言葉は、「神の元へ」という言葉だったんだ、だから、もう二度と会わないときに言うんだと、初めて気がついた。 これからも、彼とは会うかもしれないけれど、 わたしの想いは、Adieuだった。 まるでわたしの意識を裏切って細胞から出たような言葉だった。 わたしの身体が、区切りを欲していたんだ。 これでいい。 これで、いい。
神仕掛けの機械
Deus ex machinaデウセクスマキナ。 Deus ex machina デウス エクス マキナ 神 ~による マシーン 直訳すると、「神仕掛けの機械」 またラテン語かとおっしゃらずに。 ラテン語を知らずとも、オデュッセー、イーリアスを読んだことがあれば出くわす言葉です。 (これをジャン・コクトーは「Machine infernale(マシーン・アンフェルナル)」と見事に言い表し戯曲にした。 邦題「地獄の機械」は、あまりいけてないと思う。確かにこのフランス語を訳すのは難しい。ドラえもんのひみつ道具的に言えば 「地獄作り出し機~!」というのが一番ふさわしいのだけれど、それではジャン様は許してくれまい。) デウセクスマキナとは、オリンポスの神々による人間の運命への介入という意味。神様たちは、自分たちの機嫌によって人間にそっぽを向いたり微笑んだり、あっけらかんと人間の生死を決定する。 冒頭からずっと引っ張り続ける「アキレウスの怒り」、ユリシーズの放浪、トロイの陥落、みんな元はといえば女神さま同士の究極の美人争いが原因。人間の倫理とか義理人情とか熱く語られるのだけれど、神様が「やっぱ、もうアイツの味方すんのやーめた」と言えば終了。 人生で、どう考えてもなんかよくわからん力がわたしの思考をストップさせ、どこかに導いているとしか思えないという時がある。そんな時、わたしはこの言葉を思い出す。 今年の大学の授業のオプション選択で「コミュニケーション科学」を選んだのは、わたしにとってはデウセクスマキナだった。 わたしのいるナント大学は3年間の教育プログラム中、2年からは三つの進路に分かれる。現代文学コース、演劇コース、コミュニケーション科学コース。わたしは現代文学コースなのだが、これが一番オプションが多彩で、本来よそのコース専門のものでも参加できる。 1年の最初の集会で、それぞれのコースの説明とオプションの先生の紹介があった。コミュニケーション科学担当の先生はもっさりしてめがねをかけ、いかにも「メディアコメンテーター(なんだそりゃ)」といった風体。話し方、授業の内容、外見を総合してわたしの中では「却下」だった。 ところが2年の初めの登録で、うっかり彼のオプションを取ってしまった。 どうしたことだ。 授業のテーマに唆されたかもしれない。 「Histoire de l'écriture et de la mise en page」 文字とレイアウトの歴史。 授業に行ってみたら大歓迎された。日本人だかららしい。 授業は3時間ぶっ通しなのだが、まさにマルチな造詣の深さを持ち、言葉の端々に遊びをちりばめ、わたしたち生徒を「mes petits amis(わが友)」と呼ぶコルメレ先生の授業は非常に為になる。 そうして、とても大事だなと思ったのは、教える「目的」があるということだ。彼の場合は「生徒が何かを掴む」ために情熱を持って教えている先生だと生徒に伝わってくる。 「教える」は教師というタイトルを持つ人全てに共通する最低限の活動になる。違いは、「教える」を修飾するものに現れる。 「なぜ」教えるのか。「なぜ」の部分にそれぞれの教師の根本的なところが現れる。大学の先生は、インテリなだけで「なぜ」の中に「生徒を導く」という教育には欠かせないキーワードを全く持たない先生がたくさんいる。そういう人にとって、生徒はただのナンバーになってしまう。 明日はフランスのお盆トゥッサン。菊をお供えし、家族で集まる祝日。すでに人の姿は稀で街はしん、としている。 コルメレ先生は、言う。 「明日はじいちゃんばあちゃん、先祖のことを考えなさい!」 ヘブライ語とギリシャ語の発達の違いについて説明しながら、言う。 「レクチャーとは筆者が閉じ込めた言葉を解き放つ行為である。」 いい先生に出会えた神様の介入は、Machine paradisiaque(天国作り出し機)だった。
そもそもの話
このブログを記していく上で、「こころ」というものにもっと丁寧に向き合おうと思うようになったひとつのキーワードがある。それが、「Vis comica(ヴィス・コミカ)」 Vis comicaとはラテン語で、直訳すると「喜劇の力」。 わたしはこれを「笑いの力」と訳します。 わたしがこの言葉に反応したのには、まったく縁のないように見える二つのきっかけがある。 ひとつは、今わたしが学んでいる仏文。フランス文学は、やってみるまで美しく気取ったイメージしかなかったんだけれど、実際に生でぶつかってみると、こんなに「笑い」に知性を費やし、くだらないことに情熱をかけている、素晴らしいものだとわかった。 それを、祖先の古代ローマの人はすでに「笑いの力」として知っていた。 もうひとつは、落語。 落語を聴き始めて2ヶ月になる。知れば知るほど、なんだかよくわからない深みにはまるようだけれど、それでもいいんじゃないかとだらだら思う。 普段わたしたちは人を笑わせ、人と笑い合う力を持っている。 それは人の心を温め、動かす大きなエネルギー。 人生には、ちょっとがんばらないといけない場面がたくさんあります。 思うとおりに行かなかったり 誤解されたり 傷つけてしまったり 悲しい思いをしたり こんがらがってしまったり 離れてしまったり そんな時、落語の持つ「笑いの力」に助けられた。 笑う時、人には明かりが灯るような気がする。 小さくても、ぽうっと明かりがつけば、自分の周りに誰かがいるということがわかる。それは、繋がりを見つけるということ。 自分がどこにいるのか見失ってしまった時、 自分の明かりを頼りに出来ればいい。 そしてそれが、誰かの道しるべになったらいい。 わたしが、誰かの明かりに助けられるように。