4年目のあっちょんぶりけ

"Le Japon n'est pas la Chine?"「日本って中国(の一部)じゃないんですか?」

 

「中国日本省」って思っている輩がフランスにはまだまだいるとは聞いていたが、現役大学生の口から聞くとは思わなかった・・・。 比較文学カフカ「変身」と中国小説の授業中、フランス上陸四年目にしてとうとう聞いてしまった、このセリフ。 教育って。

ドはドリフのド

久しぶりに会ったアトランティック・ジャポン協会会長氏(フランス人)が、相変わらず流暢な日本語で、

「ドリフ(のDVD)買っちゃったよ!ドリフ!超面白いよ!まりにも貸すから!」

彼のような形で日本を愛してくれるフランス人が今後増加することを、切に所望する次第であります。 ドリフDVD3巻セット・・・私も欲しい・・・。

かつてちびだった時、世間のたのきんトリオブームをよそに、わたしは「結婚するなら志村けんがいい」と心に誓っていたことを思い出しました。 ナントでバスターキートンの映画をやっていると、シムケンを思ってしまう今日この頃。

ヒゲとオヤジとお前と俺と

日本の大学から仏文が消えつつあるらしいですね。フラ語、難しいもんなぁ。そんでもって役立たずだし。

仏文というより、文学部自体を目指す人が減少しているとも聞いた。 直接キャリアに結びつかないから経済やったほうがいいということなのかな。 キャリアを目指したり、大学のポストを狙ったりという気はさらさらないのですが、大学院にいる日本人の先輩たちが「日本に帰っても職などない」というのを聞いていると、なんだかなぁ・・・という気になってくる。

日本で大学を出てないわたしとしては、もうこれは体を張って何とか自活できるよう稼ぎ、残りの時間で翻訳を細々として行くしかないかと考えている。 体を張る仕事といえば、工事現場。 ヒゲとか生えてきちゃったら、どうしようかなぁ。 安全第一帽をかぶってみたいなぁ。 巨大な薬缶の口からそのまま麦茶飲んじゃったり、ワイルドなんだろうなぁ。

と、言ったら、友人に「いらないこと想像しすぎ!」とつっこまれました。

これって、性格かもしれない。わたしはよくどうでもいいことについて色々考えてしまう。

今わたしがやっていることも、日本で生きていく上では、かなりどうでもいいことばかりだ。 フラ語、ラテン語、古フラ語、仏文・・・ 唯一英語が役に立つかもしれないけど、専門じゃないからすごいいい加減。 はみ出た知識を抱えて、どうすんのさ、これ?と、なんとなく途方に暮れていた。 生きていて学んだことに無駄なことはないと人は言うけれど、収穫したものをむやみやたらに詰め込んでそこから何も生み出さなければ循環できないなーと思った。

しかし、この一見つながりの薄そうな手持ちカードをどうやって実生活で生かそうか? 知識は生かしてなんぼ。誰かに貰い、誰かに渡すという循環ができないものは、やがて滅びる。 「錬金術」か・・・やっぱり、そういう意味で「寝起きノート」に書かれていたんだろうか。

文学は、生きるために必要不可欠だとわたしは信じている。

読解という作業ははパラドックスだ。

文字で書かれたものを読んで、文字では書かれていないことを探り、心に埋め込んでいく作業だから。 この作業をまったく知らないまま世の中に出て、「数字」とか「名前」とか「言葉」という記号の中であやうく自分を見失ってしまうところだった。

私たちが使う「言葉」は、常に発信者の心の底の音色、声なき声を伝えている。それを敏感に感じ取ることができるからこそ、コミュニケーションは可能だし、皮肉なども通じることになる。 「言葉」は、記号でしかない。「いろは」の元となる万葉仮名は、中国の表記を日本人の使う音に合わせて作られた、音を伝える楽器のようなものだ。 その表記から意味を理解し、感情を読み取り、わたしたちは現在日本語を使っているけれど、

その文字を発しながら、文字自体が表現する意味をわたしたちは裏切ることだってできる。 「馬鹿」と言いながら、「好き」と伝えることだってできるし、「絶交!」と宣言することだってできるわけだ。

文章を読み取るというのは、自分ひとりの作業だ。 けれど、読みながら作者と相対するものだし、小説なら登場人物それぞれの心を探ることになる。試験で出された文章は、出題者はなぜこれを提示してきたのか、と考えることになるし、自分で本屋さんで選んだりした場合、そのときなんで自分はこの文章に惹かれたのかな、と探ることができる。読むのは一人かもしれないけれど、心を馳せる相手はたくさん居る。 白い紙の上に整然とした黒い部分を追っていくことだけでは、内容を半分「読み取って」いることにしかならない。 そこから立体的に文章を起こし、ぶつかっていくには自分の思考を使って

「なぜこう書かれているのか?」

「なぜこう読み取れるのか?」

と自らを練りこんでいかなければならない。しんどい。 「私は文系だから」と数字に対して私は常に逃げ腰だった。理由は、

「数学はひとつしか答えがない。国語はいくつも答えがある。マルかバツかだけじゃない。」

本当は、文学だって数学と同じだ。マルかバツか。 つまり、「読解」がおかしな方向へ走っていて、しかもそれが人を説得できないようであれば、「バツ」になってしまう。 そのときの状況、発信の仕方にもよるけれど、 彼氏の愛情のこもった「馬鹿」に、「なにさ!あんたのほうが頭ワルイじゃん!」と怒り出したとしたら、「バツ」。

文学は、社会生活全般で、人間関係の基盤を支えるためのこつを会得できる必要不可欠な分野だと思う。 文章という記号の底に流れる思いを読み取ることができるようになれば、人と人が生でコンタクトを取るときに、相手の感情をはずさずに読み取るのはずっと楽になるんじゃないかな。 そういうことがわかってくれば、読み取るだけでなく気をつけて発信するようになるだろうし、変に勘ぐったり、飾ったりする必要はなくなるし、相手を敬うってことは自分を大事にするのと同じだってことだってわかってくる。それを怠るから、何某衛門のようなことになるんじゃないかなあ。

「フランシスコ・ザビエルってバイヨンヌ出身らしいよ。バスク人だってよ。ところでバイヨンヌ地方ってナントに近い?」

久しぶりの電話の向こうの噺家は、すでにどうでもいい知識で飽和状態のわたしに、容赦なくどうでもいい知識を提供する。 (彼のフランスに対するイメージはザビエルに象徴されているのかもしれないという、一抹の不安のようなものも感じる。)

「自分がさ、本当に必死になってやったってこと、やることができるんだってことがわかっただけでも、フランスで勉強した意味があったってわかったの。だから苦労もできるし、色々考えなくなった。結果が思わしくなくてもいいんだ、もう。」

と言ったら、彼は

「おー!一皮剥けたな!いや、剥けましたね!」

あんまり「剥けた」と連呼されて、なんだか、冒頭の工事現場でヒゲの生えたおやじな自分が蘇って来てしまった。

当世日本語気質

今日の小ネタ。

よく寝起きに、哲学的思想とか、思いつきとか、考えても答えが見つからなかったこととかが、まるでイタコかお前は!という位にふっと「降りてくる」ことが、わたしにはとてもよくあります。

寝床のある桟敷(ロフトと大家は言い張るが)から降りた時点で、寝ぼけた頭がはっきりしてくると、そういうかけがえのない「思いついちゃった!」は霞のように消えてしまうので、忘れないように枕元にはいつもメモ用のノートと鉛筆がある。

先週、シーツを換えるときにふとそのノートを見たら、死にそうな字で 「錬金術」 と書いてあった。 どうしたらいいのか、困惑しています。 寝ている間に何かやっちまっていないといいのですが。

えー、もう耳タコです。ほんと。 あたぼうよ、べらぼうめ、こちとらぁ江戸っ子でぃ、とまーれー、いずれへ参る、控えておれぃ、近藤さま、近藤さま! 今、あたくし日本語でしゃべると変な江戸言葉になりそうなんでございます。

DVDが届いたんで始めました、落語翻訳字幕。「なんと寄席」の第一歩。 まずは元本として日本語字幕を作るため高座を文章に起こしているので、好む好まざるに関わらず同じ演目を何度も聞いている。多分一日3回以上は聞いている。 つくづく思うのが、日本語を勉強したい人には落語は本当にすばらしい教材だなぁということ。

なんとなく聞いてアハハと笑って、いろんなことを知る。それも、本の知識なんかじゃなくて、体当たりで。昨今の文化を同時に仕入れることが出来る。生の日本語で。 日本語を知っていたってわからないことはたくさんある。 特に時事ネタだったりすると、日本語が母国語であっても言葉として耳に入ってこない場合もある。 本気で日本語がしゃべれるようになりたいと思っているフランス人のみなさまには落語はお勧めです。 フラ語をしゃべれるようになりたいと思っている日本の方にも、同じく。

最近、本当によく思う。母国語できちんと「考える方法」を知っていなければ、語学(趣味ではなく、本当に使いこなせるようになるレベル)は難しいということ。 結局、問われているのは何語であろうと 「で、あんたはどう思ってんのさ?何が言いたいのさ?」 なんだから。

かつては日本語でなら言えるのに~!!!と思ったりしていたけれど、それは実は言葉の仮面にだまされているだけの話だった。私は、前回も言ったとおり日本語が下手。 さらに、アルファベット圏の言語の仕組みでは「私はこう思う」とストレートに表現せざるを得ないけれど、主語をあえてあいまいにして空気に乗せて伝える日本語は、言語力と共に、コミュニケーション力がもっと必要になるような気がする。

だから、フラ語の感覚そのままでしゃべって日本人に「けんかを売っているのか?」と誤解されたりする。 ただ、主語をはっきりさせてしゃべる癖が付いているだけなんだけど、それだけでもものすごい自己主張になる。 昔は、そういう日本語の「奥ゆかしさ」が、「あー、はっきりしろよ!」とイライラして好きじゃなかった。 フランスに来た当初は、かぶれて「お酌は男がするべし!ワタシはしない。」なんて生意気なことも言っていた。大きな荷物を抱えて困っている女の人を見ても手助けしようとする男性がいないことに、「ひどい!」と憤慨した。

今は、日本が伝統としてずっと持ち続けて、微妙に時代に沿って変化している言葉も、男性と女性の微妙な関係や、周りに対する気遣いなども、本当に好き。 この「好き」は、一種「深い恋愛・友情関係」に似ている。 好きになれない部分も知っていて、改善するべきことだって見えているし、必要とあれば目をつぶったり、付き合ったり、面と向かって「そりゃいかん!」と言ったりできる。叱られたらごめんなさいといえる。

美しいところばっかりじゃなくて、おならしたり、腹が出てたり、貧乳だったり、親父ギャグ連発だったり、酔っ払いだったり、あほだったり、うっかりだったり、 そういうのも含めて「愛情が許す」という感じ。

自分の母国をこういう風に感じることが出来るようになっただけでも、遠くまで来てよかったと思っている。 それに、結局何語でしゃべろうと、そこに表現する「気遣い」とか「マナー」とか「相手に対する意識」とか、そんなのって一緒なんだよなー。

シャワーを浴びながら、「お前は何だってそんな無駄に明るいんだ?」という番頭さんのせりふをフラ語でなんて言ったら笑えるだろうと、ああ言ってみたりこう言ってみたり、そんな私はかなりやばい29歳。ま、こんな人も居てもいいではないか、広い世の中。

ドジでノロマなカメです。

もーえーつーきーたー・・・締め切りを破って早2週間。新学期が始まった一週間のうち3日完徹。(友達には「何をそんなに疲れてるわけ?」と不思議がられた) ついにレポート完成。「Influence de l'alphabet sur la langue et sur la culture japonaises(日本の言語と文化におけるアルファベットの影響)」全29ページなり。 3日間くらいまともにご飯を食べなかったら体重2キロ減。 慣れていたつもりのWordにこんなに手こずらされるとは、不覚です。何度 「このtétu!!(テテュ、頑固者)」とパソコンに向かって罵倒したか分からない。 確かにレイアウトとかやったことなかったし、こんなに図表をたくさん入れるものを作ったことはなかったしなぁ。日本語でもこんなにたくさんの枚数書いたことなかったし。 しかも、フラ語のスペルチェックに1日、文章構成のチェックに2日はかかっているし。これだけやっても、きっとおばかなミスがあるんだろうなー・・・ハァ。 我がとろいとろけた脳みそを「与太郎」と名づけました。(与太郎は落語の世界ではある意味主役と言ってもいい、気は良いけれど非常識が服を着て歩いているようなのんびり天然キャラ。) 新学期が始まって愕然としたのは、今学期から「古フランス語」の授業があるということ。もうすでにラテン語と英語でいっぱいいっぱいなんすけど・・・。それ以前に、フラ語さえ思うように行かない、いや、日本語さえわけが分からないのに。 「頭よくなりたい。今すぐ!」と日本の友達に訴えたら、 「青魚を食べろ」 と、返事が来ました。 鯖買いにいくか、サヴァ!

Xの悲劇

X-barre

好きなもののひとつが、この科目。 このシェーマを見ただけだと「うげーー!!」と言われそうなのですが、意外にパズルのようではまるのです。フラ語脳がしゃっきりする。フラ語が正しく使えてないところとか、普段あいまいにしたまま誤魔化しながら使っているところがはっきりする。 これはナント大文学部の2年で習う言語学の授業の1つ、「Morpho-syntaxe」の中の「Théorie X-barre」というやつ。エックスバー理論と言うんだろうか。日本の大学を出てないので日本の仏文専攻の人たちがこういうことをやるのかどうかさえもわからないんですが。 この言語学系の授業は必須で、一年の一学期で大まかなフランス語文法のおさらいをし、同時に言語学の一番ベースになるフラ語の歴史(派生とか人間の脳の進化についてとか)と言語の分類などを習い、2学期には主にラテン語からフラ語への発音の進化を学習します。 2年目に「形態論」というやつを始めます。 文法に出てくる専門用語って、フラ語だとすごいわかりやすいのに日本語になるとやたら圧迫感を感じる言葉になるのが不思議です。 フラ語だと「Morphologie(モーフォロジー、英語だとMorphology)」って、響きもなんとなく和めるんですが「形態論」とか言われると圧迫を通り越して軽い恐怖を感じるのは私だけ? 何をするのかというと、最終的にフラ語の文章を上の図のように分解して、何がどこにどうつながっているのか、というのを単語単位で説明するもの。法則が色々あるので、それを知っていれば知識のない言語でも上のようなシェーマを組み立てることが出来る。昨日の試験ではナイジェリア語が出題されました。 授業ではフラ語とまったく逆の図式ができる日本語も時々例に出されていたけれど、日本語の文章はフラ語よりややこしい式になる気がします。 この言語学を始めて、自分の日本語に前より少し敏感になった。「テニヲハがおかしい」かもしれないなんてこと、以前は考えもしなかったけれど、実際に文法上正しくない日本語を書いていることが多い。 文章を書くということは、言語を使った立体画像を描くようなものなんじゃないかと、バイリンガルになってから思うようになった。 ボタンを押すとブィン、と3D画像が現れてそれがしゃべったり動いたりする。昔から未来が舞台のスパイ映画とかロボットアニメとかでおなじみのシーン。あんな感じ。 言葉一つ一つが立体画像を作り出すボタンのようなもので、読んでいくにつれてボタンが押されて画像が浮かび上がる。書き手の内部が読み手の内部に再現される。 イメージやアイデアは、クンデラが言っているようにむしろリキッド状に近い。もやもやとしていて、まだ形態をもっていない。それを言葉で表すというのは一種の化学変化を起こすみたいなものだ。 「もやもや」に一番相応しい言葉を吟味する。文章のリズムや選んだ言葉が「もやもや」に色や形、匂い、感触などを与えて、1つの明確なイメージになる。 絵画だから、人それぞれ使う色もテクニックも違うし、読み取るほうが書き手と同じ手法で描くとは限らない。だからおもしろい。 今まで、私はこの「絵画」をものすごくぞんざいに扱っていた。自分の内面に浮かぶものを、根気よく丁寧に描き出すことができずにいた。 作家じゃなくても、この言葉の絵画をきちんとできる人はたくさんいる。 そういう人を見ていると、「考える」ということを億劫がらないひとなんだなと思う。 めんどくさいなあと思うけれど、きちんと考えないまま発信すると余計な誤解を生んだりしてしまう。 発信された言葉を受け取った時、人は「言葉を理解した」と思う。けれど、同時に、言葉にまとわり付く「匂い」みたいなものも無意識でキャッチしていて、実は言葉の記号そのものよりも「匂い」のほうが一番心の深いところに響いたりする。 この「匂い」って、その人の人間性や深層心理なんじゃないかな、と思う。 だから、言葉でほめられても、ほめた人がものすごく嫉妬していたりしたら受け取った側はほめ言葉に傷つけられるということがあるし、ただ「はぁ」という相槌で「うれしい」とか「悲しい」という感情の悲鳴がびりびりと伝わったりもする。 「私の言っていることが世間的に正しい」という人がくれた倫理的なアドヴァイスより、「君よ、幸せであれ!」と願っているひとがにこっと笑ってくれた、それだけに励まされたりする。 考えたか考えてないか、っていうのは何かを話すときには隠してもばれちゃうなあと思った。 特に、人に何かを頼むとき。友達同士でも、「これ頼むわ、でも見返りはないからね」とか言われたら頼まれた方は「あたしゃ、あんたのドラえもんかよ!」と腹が立つかもしれない。 聞く前に、自分で出来る限りのことをしたかどうか。相手の状況、忙しさとか、頼まれた時の負担とか、考えることはたくさんある。 普段からどれだけそういうことに考えを馳せているかというのが、実際に会ったり話したりした時に、コミュニケーションの実力として発揮される。 上手に出来なくても、かっこ悪くても、考え方が足りなくても、 やろうとした、そういう心意気に、愛情とか友情とかを感じるんだと思う。 長くなりましたが、そんなわけで、特にうそつきで人を困らせたりはしていなかったけれど、元旦に、目標は「正直」と思ったわけです。 普段の会話でいちいち上に書いたようなことを考えていたら疲れてしまうし、受け取ったほうも重い。けれど「正直でいる」というのは、自分をも相手をも敬うことだし、歯磨きと同じように毎日やることなんだろうな、と思っています。 上のXバー、昨日の試験の問題だったんですが、今やり直してみて間違いに気づいた・・・ショック!(出題の文章はLe juge au fils duquel Berthe confiait très souvent ses grands chagrins a finalement quitté Nantes la semaine dernière. 「ベルトがよく自身の深い嘆きを聞いてもらっていた裁判官の息子は、先週ついにナントを発った。」ややこしー。)

根本思想

ネットの心理テストサイトの結果。「恋人に謝るときの謝罪の言葉・行動」わたしの答えは、 芸をする。 絶対許してもらえそうにない。 ていうか、「今の芸が面白かったから許す」という懐の広いお方がいらっしゃったら結婚して欲しいです。 日本じゃ結構有名なものかもしれない心理テスト。去年帰国したときに教えてもらってみんなでやたら盛り上がった。 深く考えずぱっと思いつくままに、理想の相手の条件を5つ挙げて1番から5番まで番号を付けてください。 たとえば、①やさしい人②お金持ちの人③きれい好きな人、などなど。 答えは下。

答え 2番目に挙げた答えが、あなたの深層に潜む理想の相手の条件だそうです。 まりの2番目は「面白い人」でした。さて、当たっているのか・・・ ちなみに、教えてくれた友達の2番目は「次男」だった。うーん。

Cauchemar

中村吉右衛門の講演会に行った。吉っつあんは、午前の部と午後の部の合間の休憩時間に、しょぼい会議用デスクを組み立て端っこでガレットを売り始める。 手のひらサイズのホットケーキみたいなまがい物で、一枚2000円。高! しかも、メニューに書かれたガレットの中身の1つが「卵尽くし」。曰く、「鶏卵・鶉の卵・ダチョウの卵」 そ、そのまんまだ・・・。添えられた写真には大中小揃い踏みの目玉焼きさんたちがお目見えする謎のガレットが。 一緒に来た友達が、殿様が乗る籠についてのレポートを書いたと言ったら、ガレットを焼きながら吉っつぁまは大層喜び、ぜひ午後の部で発表をしてくれと友達に言う。 午後の部が始まって、教壇に立ったのは 三遊亭円楽だった。 という、悪夢を見た。 誰か、この、なんかもうどうにもならない夢の解釈をして下さい。 中村吉右衛門さんは、わたしが一番好きな歌舞伎役者さんで、鬼平犯科帳と言えばこの方以外には考えられない、そして、フランスのわが家に張られた「石川五右衛門」のポスターは、その昔、手に入れるために駅に張ってあるものをはがして逃げようかと、犯罪を覚悟するほどだった、そんな、日夜拝んでいるような方なのですが。(ポスターは歌舞伎座で正規に購入いたしました。) 円楽師匠もね、復活なさってようござんしたと、遠くから回復を喜んでいたんですけどね・・・。でも、わが愛・吉つぁんが、中身だけそのままで(といっても中身を知っているわけじゃないんだけど)、いきなり円楽の姿で出てこられたら、誰だって「ぶっしゅべー」(bouche bée、口をぽっかりあけた様子、つまり驚愕。)になります。 わたしの夢の筋が八方破れにドラマチックなのは元々だったけれど、この悪夢?はリストアップして置くべきだと思いました。

続 はじめての落語 志の輔ひとり会

  日本のすごいものを、フランスに居ながら体験してしまった。しかも、LIVEで。そこがすごい。 ほぼ日刊イトイ新聞&第2日本テレビPresents 続 はじめての落語 志の輔ひとり会 インターネット中継で、高座の合間に特設こたつステージでの立川志の輔と糸井重里の落語対談。 志の輔師匠はフランス時間で朝7時位から午後17時位まで途中ほんの1時間ばかりの休憩を挟んでしゃべる。 落語をやり、こたつで語り、舞台の袖に戻ってきて今度はインターネットを見ている人に向かって語る。 舞台から降りてきた志の輔師匠を見て、はじめて落語家ってかっこいいと思った。 「すごい」とか「うまい」とか「いい」とか思ったことはあったけど、 「かっこいい」はなかったなあ! しかも、インターネットでは高座を見ることが出来ないのに、戻ってきた面々の顔や師匠本人の顔を見るだけで、高座がすごかったんだなとわかるというのは、すごい。 高座に上がる前は食べないというので、どんどん消耗しているのが画面を通しても明らかだったんだけど、落語家が高座から降りてきた姿というのはあまり見る機会がないから余計に新鮮でした。   落語というものをちゃんと知ろうと思うようになってから、ようやく半年といったところだけれど、知れば知るほど不思議な世界だと思う。 こたつで二人が話していたことというのは、とてもシンプルで、知っていると人生が豊かになることだった。 志ん生の高座の録音で、長屋のおかみさんが「なんでダンナと結婚したのか」と聞かれて 「ん、だって寒いから」 というのだが、そう言えるっていうのは夫婦愛の究極だという話があった。 志の輔さんは、落語を通して人は、言葉そのものには見えてこないけれど伝わるものが確実にあるということを知る、と話していた。 それをどれだけキャッチできるかは、噺家の発信の仕方もあるけれど、お客さんの「こころのフィルター」がどれだけ繊細に出来ているかということ次第にもなる。 人は、笑う時も泣く時も怒る時も嬉しい時も苦しい時も、揺れる。 「感動」は、感じて「動く」。 この揺れを、わたしは実現したいんだと思った。 揺れた時、その振動の中から深いところに沈んでいる「自分」というものが、必ず現れてくる。その揺れは空間を伝わって人から人へ伝っていく。 そうして、ひとりひとりが揺れては自分を感じることになる。 わたしは、この先何に関わるにしても、誰と居るにしても、何を創るにしても、揺れていたい。ゆらゆら、ゆらゆら、心地よく笑っていよう。

« La vie est ailleurs » ①

Il ne me reste que quatre contrôles... et je me sens lourde...enrhumée...?De temps en temps, je m'égare dans cette vie entre des livres que j'entasse, lorsque je ferme le livre que je viens de finir, je sens me laisser en partie dedans. "Il faut que tu le retrouves, me dis-je, sinon tu le perdras à jamais." Mais quel MOI que dois-je donc chercher? Cet énigme me hante depuis toujours...

アイデンティティというものは、どこからくるのだろう。

それは、自分が自分の中で探さなければならないものだとずっと思っていた。 ところが、そうじゃないかもしれない。

「アイデンティティは自分の中にはない。それは人とのつながりの中にある。」

と、山田ズーニーさんは言う。にょろにょろと伸びてきていた思考が、先端で行き詰まっていたような気がしていたのだけれど、この考えは暗闇を切り裂いて新しい道を照らしてくれた。それくらい、すかっとした。

何かを生み出すのは辛い。 まるでもぎ取られるようにわたしは書く。

今になって、わたしはフランス語をなめていたと、思い知らされている。 フランス文学というものを打ち立てたひとりひとりの大作家たちをわたしは本当になめてかかっていた。 すんません。

と、アヴェ・プレヴォの「マノン・レスコー」の本を前にしてあやまったりしている。 すっかり平常心を失った、テスト三昧の今日この頃。

LE POURQUOI

「なぜ」がないと、弱い。話をするにも、 話を聞くにも、 書くのも、 行動するのも、 理解をするためにも、 「なぜ」は必要。 ここのところ、ずっとひっかかっていたある人の言葉 : 「なぜ、僕のことがいいとみんなが言うのか、わからない。」 彼は、プロの「表現者」。 つまり「彼はいい」とか「彼はよくない」とか、常に、あからさまに人から評価されるシチュエーションにいる。 彼は決して自惚れの境地で調子をこいてこんなせりふを口にしたわけではない。本当にわからずに、心の底から絞り出た疑問のようだった。 初めはその言葉をどう捉えていいかわからなかった。 わたしが彼を「いい」と思えないわけではない。 なのに「これだ!」という答えがない。「好きな理由」というのが、何を言っても通り一遍の薄っぺらなものに聞こえて、言えば言うほど彼のことを貶めていくような、よくわからない悪循環に陥った。 何をどんな風に言ったって、彼は納得しないんだと気づく。でもまてよ、その前に、この質問はするべきものなのかな? 例えば、好きな人に大決心して、面と向かって告白したとします。 相手に「なんで?なんで僕(または私)なの?」と聞かれたら、 「いや、それはその、つまり・・・や、やさしいし・・・」 と、急に言葉がはっきりしなくなったりしないでしょうか。 すきすきすきすき!というピンク色のスパイラルを切り裂く青い「なんで?」。 これは、しちゃいけない質問で、答えちゃいけない質問なんじゃないのか?   フラ語で「ジュテーム(きみをあいしてる)」と言うけれど、 これは真剣な愛の告白の時のみの呪文で、形容する余計なものをつけてはならない。 ① Je t'aime.  私はきみを愛しています。  ② Je t'aime beaucoup.  私はきみをとても好きです。    一見「とても」をつけたほうが熱意が伝わりそうだけれど、 ①は恋愛対象 ②は友達でいましょう なぜかという理由を恩師K氏(フランス人)に聞いたところ、 「愛は本来無限であるべきものという観念がある。形容するものをつけると、愛に一定の限界を作ってしまうことになるから、自分の愛する気持ちも限定されてしまう。」 浮いた噂のなさそうなおっさんから、こういう熱い説明を聞くとちょっと胸がじぃんとしたものでした。 Je ferme la parenthèse.(「カッコを閉じます」大学の先生たちは「もとい」という意味でよくこう言う。) なんで彼はこんな質問をするのだろう。 他の「プロフェッショナル」と言われるひとは、こういうことを考えたりするのだろうか? 「なぜ人は自分をいいというのか?」は、逆に言えば、 「自分は人に何をいいと言わせるのか?」つまり、 「自分は人(お客さん)に、何を提供するのか?」 そうか、彼は、自分のアイデンティティを探していたんだ。 それは彼にしか見つけられない。他の人がそれに色をつけていくことはできる。けれど、色をつけるべきものがなければ、いくら絵の具をたくさん持っていてもどうしようもない。 だけど、それを一緒に探していくことはできるよなあ。 わたしはどうだろう?わたしは、わたしのやりたいことを通して一体何を人に提供するのだろうか・・・。 主語を自分に置き換えると、他人事も自分の事になる。 「なぜ」が問える時、相手も自分も一緒に深くなって行く。